うっすらと靄がかっていた

 

前の仕事を退職してちょうど半年。

1ヶ月は休憩して、3ヶ月は必死に勉強した。

 

そしてこの2ヶ月はぐったりしながらも、就職活動していてうんともすんともダメだった。

 

資格試験はおちたし、書類は通らないから面接にさえたどり着けない。

 

仕方ないから皮膚科に行って、気になっていた黒子をとった。

約3年で増えた薬が、半年でだいぶ減った。

 

社会に出ないということが、こんなにも体にやさしいとは。

今の世の中はささくれ立っていて、人とすれ違うだけでも怪我をすることがある。

 

そんななか不意に投稿された求人情報。

正規雇用じゃないからどうしようと思っていたけど、でも。

やっぱり好きなことにはチャレンジしてみたいと思って連絡してみた。

書類を送ったらすぐ連絡をくれて、面接が決まった。

 

あとは、探している人材に当てはまるかどうか、本当に縁の世界になる。

 

どうか縁がありますように。

愛が伝わりますように。

 

芸名

 

新しいコミュニティで生活するようになり約1ヶ月。

 

時々言われる、「芸名みたい」という言葉。

通常濁点をつけない文字のみで構成される名前で、まあるい音で発声する。

 

良くも悪くも目立つ。

 

かわいいを脱却したい気持ちと、まだ縋りたい気持ちとの間に揺れている。

 

普通をこれほどまで意識することになろうとは。

 

わたしはどこに行っても隠れられないのか、とたまに悩む。

 

しれっと馴染んで、ふわっと存在を隠したいことが多々あるが夢のまた夢なのか。

 

まだ先が長そうだから、もう少し様子を見ようと思う曖昧な日々。

 

 

 

腑抜け

 

 

文字に起こせば何か変わるかと思いながら、最近のことを考える。

1日のほとんどは睡眠で食事もとらずこんこんと眠る日々。

 

体重はピークより3キロ落ちた。おそらく筋肉からだろう。

 

水は飲んでいる、たまに紫蘇ジュース。

 

他にやったことといえば毎日湯に浸かることか。

 

これを機にシャンプーを変えた。

某クチコミサイト一位のものに。

美容には無頓着だけど、いかんせん30歳が見えてきている。やるだけやってみようかなと。

 

腰が治ったら宅トレしてみたいと思いつつ、まずは大掛かりな断捨離からになりそうだ。

 

如何に変われるか、勝負どころか。

 

 

卒業

 

約3年にわたる、接客の仕事を卒業した。

 

メッセージに卒業と書いてくれた人がいた。

 

退社ではなく卒業という表現を選んでくれたのは、わたしをそっと見守ってくれてた中間の立場の人だった。

 

優しさを間違えない、気遣いのある、間違いに関しては余所見せず注意のできる、尊敬できる人のことば。

 

わたしを面接してくれた人は、わたしの体を最後まで心配してくれた。そして自信を持ったわたしの背中を押す言葉をかけてくれた。

 

「自信がついたから、体から強くなった」と。

 

わたしはまだ20代で、見送ってくれた人たちは30代40代。ジェネレーションギャップを感じることがなかったのは、いつもわたしに手を差し伸べてくれていたからだ。

 

愛されていた。きっと。

 

社長の選んでくれたプレゼントと、

現場のみんなの選んでくれたプレゼント。

 

そして何より、社長からいただいた感謝のことば。

有難いの文字の通り。

社員がいながらにして、1パートタイマーが支柱となる経験などできないことなのである。

このコロナ禍だったから起きた事。

 

誰よりも顧客様を把握し、流れを知るのはわたしだった。

時の長さが知識の蓄積を生んだ。

異動のなかったわたしだからできたこと。

自信を持って生きていく。

 

下手でもポンコツでもひとつを極めれば、強みになる。

 

いつか恩返しができる日まで、走ることができるよう今から知恵と体力を温存していく。

 

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さよならさんかくまたきてしかく

 

四角は豆腐 豆腐は白い 白いは電球

電球は光る 光るはオヤジのハゲ頭

 

 

寂しさの紛れぬ夜に言葉を紡ぐ

 

愛を知らぬ行方のわからぬ、このココロ

 

友愛で婚姻を結ぶということが

広く世に認められない現在

自分を守れるのは自分しかいない

 

 

わたしは愛に怯えている

愛を盾に好き放題する者が一定数存在するから

それは愛を盾にした欲望であることが多い

 

簡潔に言えば、性の対象になることがこわい

 

持ち合わせていない、わたしの欠落した欲求

種の保存などしたくない

DNAを残したくない

 

父親の血を自分を通して残すことにゾッとする

 

他人は言う

時間が経てば許せるようになる

 

許すとかそう言う問題じゃない

生命を脅かす血縁者からは離れるしかないのだ

遺そうとしたDNAを自ら消そうとしているのだ

そんな矛盾を孕んだヤツを見過ごしてはならぬ

 

快楽の末の生命ならば消えて無くなりたい

すべての記憶から消えて、戸籍もなくして、無かったことにしてほしい

 

 

わたしの存在意義が無くなれば

跡形もなく散るのみである

 

 

 

人格形成

 

幼い頃から大人に好かれる子供だった。

幼稚園でも小学校でもそれ以降の学生生活も。

成績優秀、品方向性。模範生徒。

制服の着方の見本として学年300人の前に呼ばれたことさえあった。

 

ありとあらゆることに全力だった。

気を抜くのが苦手だった。

父親はDVのかたまり。気付いたのは小4の時。

それまでの記憶は非常に薄い。

推測では、恐怖に苛まれる何かがあった。

生きるために消した家庭での記憶。

 

6歳の子供にイラストを描かせず、ウサギはそんなじゃないと否定された。模写を求めるタイプだった。

喘息持ちのわたしに無駄にアスレチックに連れて行き、大人の体力と違うのに飲み物も与えず動き回らせたこと。

クラスで2番目に掛け算を覚えたのに、全く褒められなかったこと。音読を頭から全て暗唱したところで興味すら持たれなかったこと。

 

 

常に100点を求められていた。

父親にはできなかったことなのに。自分ができたことをせめて言えや、と常に反発していた。

まだ勉強したことないことを言ったら、習ってないとか関係ないと言われた。

理科だって算数だって国語だって、小学生レベルの内容わからないやつが。指摘したらそうやって揚げ足とると逆ギレされた。お前が言ったんじゃボケ。

「習ったことすらわからんとか意味わかんないんだけど」、「自分で調べろって言ったのはお前だろ、自分で調べろや」、「黙れ。黙れっつってんだろ。日本語通じないわけ?黙らないなら家から出て行けや」

中学高校時代のわたしの口癖。

 

 

家が嫌いだった。否、父親が嫌いだ。

怒鳴り声が下から聞こえる度に、下のお母さんに「ご飯いまいらない」とショートメール。または寝たふり。

 

蓄積から徐々に壊れていった。

耐えきれなくなったのは13歳。

入学したての春の持久走の後、初めて目眩を起こした。いつしか過呼吸の一種も出た。耳の不調もあり、元々の頭痛持ちに拍車がかかった。

 

かかりつけの医師の無駄なユーモア「耳の中に小人がいるね」つまらんこと言うおっさんだなと、少しずつ大人を疑うようになっていった。

 

徐々にかかる病院が増えていった。原因不明が増えた。

高校生にして胃カメラを飲み、低血圧に拍車がかかり血圧の1番高い時間帯に70/40を、叩き出す。

脳のCTも何回も撮った、何もなかった。

 

慢性疲労症候群と言われたのはその頃だった。

 

理系じゃなきゃ大学に行かせないと言われていたのを母伝てに聞いた。心理学を学びたかったがわたしは進路を変えた。とにかく家から出たかった。

 

本格的に悪化した身体。

1ヶ月登校しない時さえあった。1日中静かに眠る日々。その頃はめまいで歩けばふわふわしていた。生理痛で倒れたり、お見舞いに行って失神したり、今考えれば異常しかない。

 

 

 

先天的な人に好かれる才能に、自己防衛のための努力が結びつき今の人格を形成したのではと、友人と話していてなんとなくそう思った。

 

異性同性の区別も身体的特徴=戸籍上の性別としてしか捉えておらず、思春期特有の異性を意識するということが起きなかったゆえの人間関係の事故も起きた。いまだに起こしかける。

 

これだけの記憶を持ち合わせていて、何になるのだろう。キャパオーバーである。

言葉に起こして少しでも緩和されたら、なんて淡い期待を持ちながら。

 

心の傷とは向き合うか、痛みで誤魔化すかしかまだできない。

 

 

わかってるからこそ、送れない

 

手軽に遠くの人と連絡が取れる時代。

 

かつての好きだった人、いや初恋の人に、「あけましておめでとう」を送りたい衝動に駆られたまま日付は1月2日になった。

 

彼は別れてからの方が律儀な人だ。

わたしが誕生日に連絡をしたときは、わたしの誕生日に連絡をくれる。

誕生日を伝えた記憶はないから、おそらくFacebookからの情報であろう。

 

過去を思い出しては苦しさに悶える日々の中に、初々しいもどかしかった彼との思い出が突出して癒しとなる。

 

当時、彼の気持ちがわからず「すき」の一言が聞きたいがためにあの手この手を使った挙句に白黒つけたくなり、本人に聞こえるように、教室で友達に「失恋したら髪を切る」宣言をした。付き合った翌年度の3学期の終わりのことだった。

 

春休み、当時生徒会で集まり一緒に作業する機会があった。2人きりのチャンス、わたしは彼に最後の問いかけをした。

「わたしのことすき?」

返事はなかった、なんとなく濁されたような記憶。諦めることにした、好きでいることを。

春休み中に髪を切った。

次の登校は春休み明けだった。

自ら終わりを選んだが、好きな気持ちは消えたわけじゃなかった。だからずるいことをした。

 

曖昧に終わらせたように、自然消滅を装った。

共通の男友達に「もう終わったのかな」ということを聞いてもらった。その時にはもう、他の同級生からアプローチを受けていた。

「全て終わらせてからね」なんて、上から目線のわたし。

 

でも、純粋に好きなのはその初恋の彼だった。

往生際悪く5月に行く修学旅行で、スポーツの神様をコースに組み込んだ彼に、わたしの分のお守りを頼んで、ホテルの階段ですれ違うときにこっそりお金と気持ちを託した。

 

修学旅行帰宅の日、お守りを友達経由で受け取った。その年の夏の地区大会は幸いにも優勝した。

 

でももう優勝した頃はアプローチを受けていた人とお付き合いを始めていた。

とにかくずるかった、寂しさから愛される方を選んでみたのだ。曖昧な始まりなのに、わざわざ記念日をつくったような記憶。

初カノという立場を利用した。

 

 

初恋の人とは以前と変わらぬ距離感で生徒会で関わっていた、何ごとも起きなかったかのように。

 

 

 

うまくいかなかった中学時代。

メールをしていた高校時代。

再会をした成人式。

 

そして小学校卒業後10年のときに地元にいる彼に、当時の担任との連絡を託した。タイムカプセルを10年後に開けようというのを実行するしきり役がいなかったから。

グループラインも作った。しかし企画倒れした。

 

それが気にかかったまま、数年経ち20代最後の年度に入る今年がきっかけになるのではなんて考えてしまう。

 

どうしても抜けない、地元が絡むと学級委員の体質がよみがえって。

 

かといって世間話していいのかやぁなんて、少し悩む。

成人式以来会っていない。ほんとは今なら少しは話せるんじゃないかって期待もしてしまう。

でもそこに恋愛感情ではなく、単なる興味が付随する。

 

律儀で優しい彼に負担を増やすのはもう嫌だなと思いながら、文をしたためている。